山口百恵

札幌コミュニティFM「三角山放送」で、2003年の12月30日に朝9時から午後6時までの9時間に及ぶ「山口百恵デビュー30周年企画・百恵回帰」という生放送があった。百恵ちゃんファンの一人として、その番組のアンケートに答えてみた。そして、この番組を知るきっかけになった「百恵 Archives」というサイトのウェブマスターは、その昔、ファンとして連絡を取り合っていた人だったと分かったときの驚き。サイバーワールドの妙である。そのサイトに書いたものとアンケートに訂正・加筆してここに改めてアップしてみた


私の百恵ちゃんストーリー


私は、75年の11月から80年の3月まで、百恵ちゃんを熱心に応援するファンだった。実は、今でも、ファンに変わりがない。当時の私は、映画に夢中で、月に20本以上は映画館で見ていたほどだ。歌謡曲なんてつまらない。歌手も演歌歌手以外はみんなヘタだ、という偏見を持っていた。それが、郷ひろみさんが好きだった妹の影響と、75年の11月3日に起こった事件(75年度の「日本歌謡大賞」の12人の候補からもれたこ)とで、コロッと変わってしまった。ファンになったからには、私なりに徹底して百恵ちゃんを観察した。彼女の出演テレビ番組はなるべく見るようにしていたし、ビデオが普及していない時代だったから、せめて音だけでもと思って録音をせっせとしていた。今日は音程が外れたから疲れているのだろうとか、テンポが速すぎて、歌がフラット気味だったとか、他人の持ち歌をうまく歌ったとか、「夜のヒット・スタジオ」ではとなりに座った人と何を話していたのだろうか、などと他愛ないかもしれないが私なりに真剣に百恵ちゃんと向き合っていた。
 

もちろん、ライブ・ステージ・ショウも札幌のみならず、旭川での地方巡業や東京へ行って見た。新宿コマの「百恵ちゃん祭り」に行ったし、「三人娘・涙の卒業式」は知人の計らいでリハーサルから見たし、東京のリサイタルにも行ったし、とにかく行けるステージにはできるだけ行った。ショウの構成がどうの、どんな曲を歌っただの、歌詞を忘れただの、曲のアレンジがレコードと違うだの、思いついたことを書き留めたりした。更に、映画関係の友人のコネなどを利用して映画の撮影やテレビの生番組を見学し、おまけに、「ムォモエちゃ~ん」というミニコミまで発行していた。(これは、フランケンシュタインが百恵ちゃんの歌を聴いて、もだえながら彼女の名を叫ぶという当時のソニーのCMからヒントを得てつけたタイトル)。何故ミニコミだったかと言うと、あのころは、多くの人たちと一度にコミュニケートするにはミニコミを作って郵送するしかなかったからだ。雑誌の露出はアイドルだったからかなりなもので、それらを全て買うだけの金銭的な余裕もエネルギーもなかったが、記事はできるだけ立ち読みで目を通していた。百恵ちゃんが真摯に仕事をしているなら、私もそれに応えて何でも知っておきたいと思った。
 

それだけ一生懸命だったから、同時に、当時のファンクラブ(ホリプロ友の会)に対する不満が解消されず、東京で会う、ある一部のコアなファンたちのあり方にも疑問を覚えてサイレント・ファンになってしまった。ミニコミも作らなくなったし、文通していたファンとも次第に疎遠になっていった。
結構、身近で彼女の仕事ぶりを見ることが出来たこともあって、結婚・引退宣言にショックを受けなかった。むしろ、安堵した、といえる。私は百恵ちゃんには普通の女性としての幸せをつかんでほしいとずっと思っていたからで、あぁこれで、ドロにまみれなくてすむなぁ、と、ほっとしたのを覚えている。と、同時に、私自身、80年の3月からロサンゼルスに来てしまった。だから、結婚・引退騒動は風の便り程度にしか知らない。あまり、知りたいとも思わなかった。どんな事があっても、私の中の百恵ちゃんは永遠に消えるはずがないから。今にして思うと、芸能界の悲鳴のような喧騒を知らなくてよかったと思う。そんなに惜しむなら、何故、レコード大賞をあげなかったのだ?どうして日本歌謡大賞をとらせなかったのだ?何で主演女優賞を受賞しなかったのだ?たかがアイドルと軽視していたのだ?全盛のときに正しい評価をしないで、未練たらしく何を言っているのだ、と怒りまくったに違いない。それと、今更、百恵ちゃんのコレクターになるつもりはないが、フォトジェニックな百恵ちゃんの篠山紀信さんによる写真集は買っておけばよかったと思う。
 

その後、日本へときどき帰るようになっても、レコード店をのぞく事もなかった。それなのに、95年ごろから香港映画に興味を持ち出したのがきっかけで、再び、百恵ちゃんの歌を聴くことになる。「香港のマドンナ」と言われるアニタ・ムイ(香港ではムイ・イムフォンと呼ばれている)が百恵ちゃんの「ありがとうあなた」「曼珠紗華」「ロックンロール・ウィドウ」「This is my Trial 私の試練」をカバーしていることに驚き、日本でも人気があるレスリー・チャン(香港ではチョン・コッウィン)が「さよならの向う側」をカバ-して大ヒットさせた。そして、彼が亡くなった今年の4月、お通夜でも葬式でもこの「風繼續吹」がバックグラウンドに流れ、この曲はレスリーの代名詞のようになった。二人は百恵ちゃんの潔い引退に感銘して、一度は音楽界から引退した。レスリーはさよならコンサートの最後でマイクを封印までした。もっとも、二人とも5年も経たずにカムバックしてしまったが。他にも、百恵ちゃんの歌をカバーしている歌手がいるけれども、私は強いて聴きたいと思わない。
 

私は香港でこれほど百恵ちゃんが人気者だとは知らずにいた。映画関係のグッズを買いに信和中心というところへ行ったとき、地下の角にある小さなショップで百恵ちゃんのポスターを見た。その店のオーナーはあまり英語ができないし、私は全く広東語ができないので詳しくはきけなかったけれども、彼が百恵ちゃんの大ファンであることと店の名前を「山口百恵」とつけていることがわかった。彼は有線やラジオ局などに配られた、とか言う発売用ではないEPレコードなど、レアらしいコレクションを少し見せてくれた。当然、それは売り物ではなかった。一年に一度訪れる香港で、HMVをはじめCDショップではJ-POPSとして百恵ちゃんのCDが売られ、全出演映画のVCD(ビデオCDの略。香港では非常にポピュラー)ボックス・セットや日本で「赤い疑惑」のビデオが売り出されたあとにVCDのボックス・セットが店頭に並んだ。探さなくても、百恵ちゃんが追いかけてくるような気がした。そのいくつかを、ついつい買ってしまった私である。彼女の歌をときどき聴くようになったし、長時間のドライブでは一緒に歌ってしまう。
 

今年の三月、デビュー30周年を記念して、百恵ちゃんのオリジナル歌唱アルバム22枚をCD化した「百恵PRMIUM」が発売されるという記事をインターネットで見た私は早速予約申し込みをしようとしたが、海外からは受け付けないようだった。しかたなく、母に頼んで地元のレコード屋さんに予約したが、この11月に家に帰ったときはCDプレイヤーがないので聴かれなかった。ただ、それから誘発されて、百恵ちゃんについて誰かと語りたいという欲求が生まれ、インターネットで百恵ちゃんのホームページを覗いてみる気になった。それまでは、全く、そんなことを考えたこともなかったのは我ながら不思議な気がする。さらに、ヤフーにリストアップされたホームページの中で、初めて開けたHPがかつて私と文通をしていた人(言うまでもなく、デビュー当時からの熱烈なファン)が作ったものだと知って仰天した。百恵ちゃんが引き合わせてくれたのだろう。彼との縁で三角山放送の存在を知り、9時間に及ぶ百恵ちゃん大特集のことも知った。それで、番組のアンケートに答えてみた。
 

私の「歌手としての百恵ちゃんストーリー」はこんなものだが、彼女は単なるアイドル歌手ではなかった。百恵ちゃんの歌は、特に、阿木+宇崎コンビと出会ったあとからのアルバムでは大衆受けを狙ってはいなくて、彼女の可能性の追求だったように思える。彼女のチャレンジに我々ファンは熱く応えた。私は百恵ちゃんによって歌謡曲のすばらしさを知った。ファンになって本当に良かった。
 

限られた人生の中で、夢中になる対象に出会えた人は幸せだ。私は百恵ちゃんに一生懸命だった時期を懐かしく思う。あのときは、本当に百恵ちゃんに入れ込んで、第一級のエンターテイナーになってほしいと応援した。年ごとに、歌も演技も確実に上手くなり、期待がどんどん大きくなり、多くの喜び、幸せ感を貰ったと思う。いまや伝説化されつつある百恵ちゃんと、何年間かを共有して生きてこれられて幸せだった。これからも、その気持ちは強くなりこそすれ薄れることはないだろう。
百恵ちゃん、数多くの幸せを、ありがとう。

山口百恵 回帰 アンケート

シングル・ベスト 5
1              横須賀ストーリー
2              ささやかな欲望
3              プレイバック・Part2
4              秋桜
5              ひと夏の経験
 
私にとっては歌手・山口百恵は「横須賀ストーリー」一曲に尽きる気がする。これしかない、と言う意味ではなくて、この曲の中にそれまで歌ってきた曲の集大成的な要素とそれ以後に歌われる曲の主要な要素が入っているからだ。そういう意味で「横須賀ストーリー」は彼女の代表作であり、傑作でもある。
「ささやかな欲望」は彼女の曲としては地味な部類に入るが、この曲を歌いだしたときに、その年の年末に行われた「日本歌謡大賞」の12人の候補者に入らなかった・・・という大事件があり(アイドルとして活躍していたのに)、ファンではない私から見ても彼女が気の毒だった。その後の彼女は、しかし、丁寧に「ささやかな欲望」を歌い通し、私はその態度に胸を打たれて百恵ちゃんのファンになった。つまり、個人的な思い入れがある歌なのだ。それと、飛躍的に彼女の歌唱力がついてきた頃の曲としてこれを入れたい。
阿木燿子+宇崎竜童コンビの曲はほとんど全て素晴らしいので、「イミテイション・ゴールド」や「絶対絶命」などどれを入れようか迷った末に、この曲「プレイバック・Part2」での百恵ちゃんの歌唱力を買ってベスト5入り。「秋桜」は逆に阿木燿子+宇崎竜童コンビ以外の曲の中で完成度が高い曲。と言っても、発売当時はそれほど好きではなかった。なんだか、百恵ちゃんの世界が小さくまとまってしまうかもしれないという恐れがあったのだ。今は、スタンダード曲になったと思う。「ひと夏の経験」は千家和也+都倉俊一コンビの傑作で、百恵ちゃんにとってもエポック的な曲だから。

B面・アルバム曲 ベスト 10
1      曼珠沙華
2      喪服さがし
3      猫がみていた
4      Crazy Love
5      Game Is Over
6      モノトーンの肖像画
7      オレンジ・ブロサッム・ブルース
8      タイトスカート
9       I Came From 横須賀
10         Made In UFO
 
私は引退の年(80年)に発売されたアルバムはほとんど知らないし、現在、手元に百恵ちゃんのアルバムがほとんどなく(実家に、しかもアナログLPがある)、もう一度聞き返すことが不可能なため、この作業は難しかった。結局、私が好きな「17才のテーマ」「Golden Flight」、「L.A. Blue」「百恵白書」といったアルバムの中の曲が大半を占めてしまった。しかし、このベスト・テンは日によって、コロコロと変わるのが実情だ。「愛のTwilight Time」を入れた方がいいかも、「タイトスカート」を「碧色の瞳」と入れ替えようか・・・、そうすると「陽炎」や「あまりりす」の入る余地がどこにもない、などと困った挙句にこうなった。「猫がみていた」は確か、久世さんがペンネームで書いた詞だったと思う。この歌を初めて聴いたとき、百恵ちゃんは本当に歌が美味くなった、と感心したものだ。それに、シングルのA面がよければ、B面も良いという定説を証明している。
 
ベスト・アルバム
「L.A. Blue」
 
「17才のテーマ」、「Golden Flight」、「横須賀スト-リー」、「百恵白書」をはじめ、百恵ちゃんのアルバムはすべて良い。「15のテ-マ」も感動作だったなぁ、と記憶をたどった。アルバムを初めて聴くときの期待と不安、そして、予想を上回る感動を得たときはファンとして至極の喜びだった。77年以降の百恵ちゃんのアルバムにはその喜びがあり、特に「17才のテーマ」は衝撃的だったし、ベスト・アルバムと言えるかもしれない。それは阿木+宇崎コンビとの本格的な出会いでもあった。ただ、このアルバムはテレビ・ドラマや映画の主題歌、シングルのA,B面の曲が含まれる。それがほとんど邪魔には感じないのだが、「Golden Flight」や「L.A. Blue」と比べると、落ちてしまった。
「Golden Flight」は初の海外レコーディング盤であり、意欲的で、聴けば聴くほど良さが分かるアムバムだ。これにしようか、「L.A. Blue」にしようか随分迷った末に、「L.A. Blue」にした。このアルバムの完成度は群を抜く。歌手としても百恵ちゃんの限りない可能性を示唆していて聴き飽きない。芸能界を引退してもいいから歌だけは歌いつづけて、年に一度か二年に一度でも、ひっそりとアルバムを出してほしい、とあの頃思ったものだ。